常在戦場 常に戦場に在り
先日義母の入居している介護施設で「夏祭り」があった。義母の入居しているのは認知の進んだ人の階だ。
おじさんとくうみんは密かに「認知界」と呼んでいる。「階」ではなく、「界」だ。ちなみに、一階は「健常界」健常者の階、2階は「身体界」体の不自由な人の階である。
同じ認知症と言っても程度の差があるので、正常に近い人は、水に浮かべた人形を釣ったり、男性はスイカ割りを楽しんだ。
しかし、認知が進むにつれて、何をしているか判らなくなる。くうみん義母もそんな感じだ。去年はまだ、楽しそうにして、自分でご飯も食べられたのに。
周りを見ていると、同じように去年は元気そうだったのに、今年は…と言う人が何人かいる。
気になる人がいなくなった。
「あの方はどうしたのですか?」
ヘルパーさんは
「他に引っ越したんです」
と言う。これは、入院したと言う意味らしい。老人は日々衰えていくものだ。
くうみんが気になったのは今年で105歳になるはずのじいちゃんだ。山本五十六元帥の最後の側近だったそうだ。いつも入口近くのテーブルについて、腕時計をしている。片腕を肘掛けに置いて、背筋をすっと伸ばしているのがかっこいい。元軍人であらせられたのに、柔和な顔立ちだ。
「こんにちは」
と、挨拶すると、鷹揚にうなずくか、片手をあげる。
くうみんが友達一家と、食事をしたとき、御主人にこのことを話すと、
「ぜひその方の話を聞きたい」
と言うので、おじさんが施設長に聞いてみた。
「もう何もわかりませんよ」
とのことで、この話はなくなった。
何もわからないと言っても、その姿は凛々しく、人としての尊厳を感じた。
ボケて何が怖いかと言うと、お下の始末を人にお願いすることでも何でもなく、その人の本性が判ってしまうことではなかろうか。頭が働いているときは、何とか取り繕っているけれど、認知が入ると、その人の「素」がもろに出てしまう。
くうみん義母はどうか。今では言葉の断片をブツブツ言うだけで、意味の分かることを言うことは少ない。
しかし、この夏祭りの時のようなにぎやかな場では、判らないなりに楽しくなって脳が活性化するのか、意味の分かることを言う。例えばこんなこと。
「お父さんはどこに行ったのかしら?」
仲のいい夫婦だったらしい。こんな時は適当に、合わせる。
「そうね、どこに行ったんだろうね」
「寝ているの?」
「そうそう、今、寝てる!」
そして息子であるおじさんをお義父さんと間違える。
こんな義母は、人柄がいいんだと思う。
おじさんの2人の義姉さん達と、雑談していて、こんなことをよく話題にする。
「私はお母さんと体質が似ているから、きっとボケるわ」
「くうみんさんのおかあさん、まだ頭がしっかりしているから、くうみんさんはボケないわね」
くうみん母は性格が悪いので、ボケたら一気に化けの皮がはげる。だからボケる訳にはいかんのだよ。
くうみんがボケたら、どんないぢ悪ばあさんになるのだろうか?
「がんとボケとどっちがいいかしら」
「両方ってこともあるわよね」
あのー、お義姉さん方、私すでにガンですけど。
隣のばあちゃんが、くうみんの飲んでいるノンアルカクテルを見て言った。
「私も飲みたい」
「そう、これがいいですか?ヘルパーさんに頼んでみますね」
ヘルパーさんは飲み物じゃなくて、かき氷を持ってきた。
「これでいい?」
ばあちゃんは自分でスプーンを使っておいしそうに食べ始めた。
義母の入居階の入り口近くに一枚の色紙が飾ってある。例の山本五十六元帥の側近が残して行ったものだと言う。なんと書いてあるのか判らなかったが、習字をしていると言う人に聞いてみたら、
「常に戦場に在り」
と読むそうだ。
そう言ったら、ヘルパーさんが言った。
「私達みたいなものですね」
いつもありがとうございます。
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おじさんとくうみんは密かに「認知界」と呼んでいる。「階」ではなく、「界」だ。ちなみに、一階は「健常界」健常者の階、2階は「身体界」体の不自由な人の階である。
同じ認知症と言っても程度の差があるので、正常に近い人は、水に浮かべた人形を釣ったり、男性はスイカ割りを楽しんだ。
しかし、認知が進むにつれて、何をしているか判らなくなる。くうみん義母もそんな感じだ。去年はまだ、楽しそうにして、自分でご飯も食べられたのに。
周りを見ていると、同じように去年は元気そうだったのに、今年は…と言う人が何人かいる。
気になる人がいなくなった。
「あの方はどうしたのですか?」
ヘルパーさんは
「他に引っ越したんです」
と言う。これは、入院したと言う意味らしい。老人は日々衰えていくものだ。
くうみんが気になったのは今年で105歳になるはずのじいちゃんだ。山本五十六元帥の最後の側近だったそうだ。いつも入口近くのテーブルについて、腕時計をしている。片腕を肘掛けに置いて、背筋をすっと伸ばしているのがかっこいい。元軍人であらせられたのに、柔和な顔立ちだ。
「こんにちは」
と、挨拶すると、鷹揚にうなずくか、片手をあげる。
くうみんが友達一家と、食事をしたとき、御主人にこのことを話すと、
「ぜひその方の話を聞きたい」
と言うので、おじさんが施設長に聞いてみた。
「もう何もわかりませんよ」
とのことで、この話はなくなった。
何もわからないと言っても、その姿は凛々しく、人としての尊厳を感じた。
ボケて何が怖いかと言うと、お下の始末を人にお願いすることでも何でもなく、その人の本性が判ってしまうことではなかろうか。頭が働いているときは、何とか取り繕っているけれど、認知が入ると、その人の「素」がもろに出てしまう。
くうみん義母はどうか。今では言葉の断片をブツブツ言うだけで、意味の分かることを言うことは少ない。
しかし、この夏祭りの時のようなにぎやかな場では、判らないなりに楽しくなって脳が活性化するのか、意味の分かることを言う。例えばこんなこと。
「お父さんはどこに行ったのかしら?」
仲のいい夫婦だったらしい。こんな時は適当に、合わせる。
「そうね、どこに行ったんだろうね」
「寝ているの?」
「そうそう、今、寝てる!」
そして息子であるおじさんをお義父さんと間違える。
こんな義母は、人柄がいいんだと思う。
おじさんの2人の義姉さん達と、雑談していて、こんなことをよく話題にする。
「私はお母さんと体質が似ているから、きっとボケるわ」
「くうみんさんのおかあさん、まだ頭がしっかりしているから、くうみんさんはボケないわね」
くうみん母は性格が悪いので、ボケたら一気に化けの皮がはげる。だからボケる訳にはいかんのだよ。
くうみんがボケたら、どんないぢ悪ばあさんになるのだろうか?
「がんとボケとどっちがいいかしら」
「両方ってこともあるわよね」
あのー、お義姉さん方、私すでにガンですけど。
隣のばあちゃんが、くうみんの飲んでいるノンアルカクテルを見て言った。
「私も飲みたい」
「そう、これがいいですか?ヘルパーさんに頼んでみますね」
ヘルパーさんは飲み物じゃなくて、かき氷を持ってきた。
「これでいい?」
ばあちゃんは自分でスプーンを使っておいしそうに食べ始めた。
義母の入居階の入り口近くに一枚の色紙が飾ってある。例の山本五十六元帥の側近が残して行ったものだと言う。なんと書いてあるのか判らなかったが、習字をしていると言う人に聞いてみたら、
「常に戦場に在り」
と読むそうだ。
そう言ったら、ヘルパーさんが言った。
「私達みたいなものですね」
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